大きな窓ガラスに映るモノ
漱石、明暗、そして漢詩
証道歌「真不立 妄本空」の節
これは漱石絶筆の詩について陳明順が「漱石漢詩と禅の思想」勉誠社のなかで「心是根 法是塵、両種猶如鏡上痕。痕垢尽除光始現、心法双亡性即真。」を踏まえたものであると指摘しているところです。
碧巌録
「従容録」 第三六則 馬師不安
[本則]
「碧眼録」に同じ。
[示衆]
衆に示して云く、心意識(思量分別)を離れて参ず。しゃこの在る有り。凡聖の路を出でて学す。
已に太高生(甚だ高すぎて危うい)。紅炉、鉄びしをへい出す。舌剣唇槍も口を下し難し。ほうぼうほ犯さず、試みに請う、挙す看よ。
[頌]
日面佛、月面佛。
星流電巻。
鏡無私対像。
(「華厳経」行願品「心は浄明鏡の如し。物を鑑みていまだ嘗て私あらず。明鏡は唯形を照らして心想を鑑せず。」)
珠在盤自転。
君不見 剪(鍛冶が用いる金鋏)鎚前、百練金。
刀(鋏)尺(物指し)下、一機絹。
「雨中観月後晴」 (2006年10月08日 海山人)
「一円鏡」満月
証道歌「真不立 妄本空」の節より
心是根 法是塵、両種猶如鏡上痕。
痕垢尽除光始現、心法双亡性即真。
空海「秘蔵宝鑰」『第四唯薀無我心』より
師のいはく
「大山、徳広ければ、禽獣、争ひ帰し、薬毒、雑り生ふ。
宝蔵の側には定んで盗賊あって窺ユ(穴/兪)す。
美女は招かざれども、好醜の男、あらそいひ逐ひ、
(中略)
富人は呼ばざれども、貧人集まり、
智者はこれを黙せども、童朦聚る。
明鏡、みがいて浄ければ、妍蚩(ケンシ:美醜)の像、これを現じ、
清水、澄み湛(タタ)ふれば、大小の相、これに影(ヤド)る。
空海「即身成仏義」より
かくの如く等の身は、縦横重重にして、鏡の中の影像と灯光の渉入との如し。
彼の身すなはちこの身、この身すなはち彼の身、仏身すなはちこれ衆生身、衆生身すなはちこれ仏身なり。
不同にして同なり、不異にして異なり。
完成
青天映緑水
明月照観人
散花愛惜否
別有鏡中真
自作漢詩 「鏡」 (2009年10月25日 海山人)
31 件のコメント:
池に映る空の方が
上の空より綺麗ですね。ポチ
http://blogs.yahoo.co.jp/ta_tuma1223/49253158.html#49257990
”古鏡 道元 正法眼蔵”検索結果
http://www.google.co.jp/search?as_q=%E5%8F%A4%E9%8F%A1+%E9%81%93%E5%85%83+%E6%AD%A3%E6%B3%95%E7%9C%BC%E8%94%B5&hl=ja&client=firefox-a&rls=org.mozilla%3Aja%3Aofficial&hs=YzZ&num=100&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&as_epq=&as_oq=&as_eq=&lr=lang_ja&cr=&as_ft=i&as_filetype=&as_qdr=all&as_occt=any&as_dt=i&as_sitesearch=&as_rights=&safe=images
道元禅師の『正法眼蔵』
第一章 現成公案(げんじょうこうあん)
仏道をならうといふは、 自己をならふなり。
自己をならふといふは、 自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、 万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
観照
父母未生以前、人間本来の面目
水面の揺らぎに映る像
心是根 法是塵、両種猶如鏡上痕。痕垢尽除光始現、心法双亡性即真。
鏡無私対像。
心は浄明鏡の如し。物を鑑みていまだ嘗て私あらず。明鏡は唯形を照らして心想を鑑せず。
明鏡、みがいて浄ければ、妍蚩(ケンシ:美醜)の像、これを現じ、
清水、澄み湛(タタ)ふれば、大小の相、これに影(ヤド)る。
鏡の中の影像と灯光の渉入
池に映る空
観照
面目
鏡に映る自分を
正視できるか
ちょっと違いますが
杜牧「題烏江亭」
勝敗兵家事不期
包羞忍恥是男児
江東子弟多才俊
巻土重来未可知
照鏡見白髪 張九齢 (井伏鱒二「厄除け詩集」所蔵)(2000/12/15 20:00 メッセージ: 32 )
宿昔青雲志 シュッセシヨウト思ウテイタニ
蹉?白髪年 ドウカスル間ニトシバカリヨル
誰知明鏡裏 ヒトリカガミニウチヨリミレバ
形影自相憐 皺ノヨッタヲアハレムバカリ
反歌:惜しむべく悲しむべきは世の中に過ぎて又こぬ月日なりけり(古歌)
鏡上痕
空海「秘蔵宝鑰」
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
鏡無私対像。
「心は浄明鏡の如し。
物を鑑みていまだ嘗て私あらず。
明鏡は唯形を照らして心想を鑑せず。」
「華厳経」行願品
明鏡、みがいて浄ければ、妍蚩(ケンシ:美醜)の像、これを現じ、
清水、澄み湛(タタ)ふれば、大小の相、これに影(ヤド)る。
空海「秘蔵宝鑰」『第四唯薀無我心』
かくの如く等の身は、
縦横重重にして、
鏡の中の影像と灯光の渉入との如し。
彼の身すなはちこの身、
この身すなはち彼の身、
仏身すなはちこれ衆生身、
衆生身すなはちこれ仏身なり。
不同にして同なり、
不異にして異なり。
空海「即身成仏義」より
池に映る空
雪峰、衆に示して云く「世界闊きこと一丈なれば、古鏡闊きこと一丈。世界闊きこと一尺なれば
万物是真鏡
仏道をならうといふは、 自己をならふなり。
観照
水面の揺らぎに映る像
面目
鏡 = 智恵
空海
「万物是真鏡」
習仏道=習自己
->仏=自
磨瓦 磨仏
露、湖水
生生生生生
無私対像
明鏡磨浄、妍蚩像現是(妍蚩:美醜)
清水澄湛、大小相影是
草生
石
露、湖水
生生生生生
只映像
妍蚩(美醜)
清水澄湛、大小
花は愛惜に散り
草は棄嫌におふるのみ
道元
第四二則 ホウ居士好雪片片
禅語「法演禪師語録」より。『碧巌録』「第四十二則 評唱」
居士問馬大師。不與萬法為侶是什麼人。
大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。
師云。一口吸盡西江水。洛陽牡丹新吐蘂。
[読下例]
居士馬大師に問う。「万法と侶[とも]たらざるもの是れなんびとぞ。」
大師云く。「汝が一口に西江の水を吸盡せんを待って、即ち汝に向かっていわん。」
師云く。「西江の水を一口に吸盡すれば、洛陽の牡丹 新に蘂を吐く。」
私の解釈はこうです。 人という"部分"が、江(自然の代表)という"全体"と 一体になった時、初めて真理が見える。(1997年03月19日梅足)
また、利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたといわれているそうです。
関連:
詩話 No 46 「一口吸盡西江水、洛陽牡丹新吐蘂。」
『正法眼蔵 第一現成公案』巻頭の一節より。
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
関連:
「草花」 (2004年1月17日 海山人)
関連:
「隻蝉」 (2006年9月30日 海山人)
草生
石
露、湖水
生生生生生
只映像
妍蚩(美醜)
清水澄湛、大小
愛惜、棄嫌
與萬法為侶
一口吸盡西江水。
洛陽牡丹新吐蘂。
写生
生生生生生
一生又三生
亦
即
是
万 千
木 草
物 景
風
水
影
形影心
喜怒哀楽
別有天地
観相
青天映緑水
明月写白日
照
花散愛惜否
一生■三生
別有鏡中真
月明写日白 照
水緑映天青
散花愛惜否
別有鏡中真
見
風吹
円相
風幡
通韻
{十一真、十二文、十三元、十四寒、十五刪、「下平声」一先}
真→【上平十一真】
真因茵辛新薪晨辰臣人仁神親申伸紳身賓濱鄰鱗麟珍瞋塵陳春津秦頻蘋顰嚬銀垠筠巾囷民緡貧淳醇純脣倫綸輪淪勻旬巡馴鈞均臻瑧榛姻闉宸寅嬪齗旻彬鶉皴遵循振甄禋岷諄椿詢恂峋漘莘堙屯駰呻粼磷轔璘瀕嚚罠笢閩豳逡踆畇侁歅填誾狺泯旼忞洵溱詵駪桭湮儐驎燐夤荀郇錞迍竣紃蓁輑礥侲籈諲麎娠柛璡螓紉蠙鄞縜麇奫箘鶞珣掄蜦窀僎鷷袀姺甡墐畛潾嶙瞵眴斌兟氤份邠檳繽惇侖瞷菌袗稹縝肫嗔焞蓴裀絪荺
青天映緑水
明月照 人
散花愛惜否
別有鏡中真
青天映緑水
明月照観人
散花愛惜否
別有鏡中真
コメントを投稿